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み言葉のいづみ

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遣わされた救いの勇士

2016-12-01
千代崎 備道
 
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 
(ヨハネ第一の手紙四章10節)
 
勇士とは、遣わされたなら、どんな危険な戦地にも恐れずに向かいます。父なる神が御子を救いの勇士としてこの世に遣わされたのがクリスマスです。
旧約聖書に預言されている通りメシヤがどのような扱いを受けるかを、御子はご存じでした。彼の民であるはずのイスラエルの人々は、彼を拒みます。それでもイエス様は人々を愛し、罪人の友となり、病人を癒やし、神の恵みを教えました。しかし、熱狂していた群衆の心はやがて離れ、心血注いで育てた弟子たちは裏切って逃げました。最後に勇士を待っていたのは処刑場の十字架です。しかし、裁判の場でも恐れずに立ち続け、十字架につけられても人々を救うことを忘れず、父なる神に祈られたのです、「父よ、彼らをおゆるしください」と。
この勇士を遣わされた父なる神は、忠実な彼を決して見捨てたりはしません。十字架の死に至るまで御旨に従い通した勇士は、最後は死という敵に打ち破られたかに見えました。しかし、神は勇士を死から甦らせ、罪と死に対して勝利を与えられたのです。そして、このお方を救い主として信じる私たちにも、罪の赦しと天国の希望を与えて、勝利を分かち与えてくださるのです。
この救いの勇士であるイエス・キリストは、さらに奥地へと赴きます。それは私たちの心の中です。弟子たちと共に過ごされたお方は、今度は信じた私たちの心の中に住んでくださいます。でも、私たちはこのお方を私の主としてお迎えしているでしょうか。
『私の心は私の王国だ。私は自分の好き勝手に考え、やりたいことを願い求めるぞ。私は決して間違っていない。悪いのは全て他の者たちだ。』
キリストが心の中に来てくださっても、私たちは彼を心の片隅に押し込め、都合が良いときだけ利用し、主人として従うことは拒絶する。それが私たちの本音なのではないでしょうか。
でも救いの勇士は、それでもひるむこと無く、私たちを愛し、教え、癒やし、語りかけ続けてくださるのです。
このお方を私の勇士として、心の王となっていただくなら、私の心を造り変え、内なる人を新しくしてくださるのです。

傷ついた勇者

2016-11-01
千代崎 備道
 
 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 
(イザヤ五十三章4~5節)

サムソンの時代から軍事国家ペリシテに苦しめられてきたイスラエルを救うためにサウル王が選ばれ、敵を排斥して独立を目指す戦争を率いた。でもサウルは道半ばで倒れ、ペリシテとの激戦で戦死した。彼の死を嘆いたダビデは弔いの歌を作った。「勇士は倒れた」と(第二サムエル一・19)。サウルの遺志を継いだダビデは、圧迫していた周辺国を倒し、平和をもたらした。しかし彼は誘惑に負け、罪との戦いに倒れ、国はやがて王位継承の混乱に陥り、ついには分裂に向かっていった。ダビデの子孫として、罪との戦いに挑んだナザレのイエスは、権力者たちの嫉みに遇い、反対者たちは彼が神を冒涜する罪を犯したと主張し、ついに殺してしまう・・・。
戦いに強い勇士でさえ、いつか倒れる時が来ます。救いの勇士であるイエス様も、敵に捕らえられ、むち打たれ、傷つけられ、最後には死んでしまいました。しかし、主が傷つけられたその痛みは、私たちの罪のためであり、その傷は私たちを罪の病から癒やすためであることを、キリスト誕生の数百年前に預言者イザヤが語っています。
強い勇士であるイエス様は、祭司長たちとの戦いに力で勝つこともできましたが、それでは私たちを救うことができない。そこで自ら(無実なのに)罰を受け、苦しみを受けてくださった。それは私たちを救うためだったのです。その痛みに耐える強さを持っておられる勇士だったから、このお方だからこそ、天の父に見捨てられ、罪人たちからも侮辱され、喉が渇くほどに血を流しても、なお私たちの赦しを祈って、罪の身代わり(贖い)を成し遂げることができたのではないでしょうか。誰よりも強いお方だから、十字架による救いを成し遂げることができたのです。
アドベント(待降節)は、旧約聖書の民が長年、救い主を待ち望んだ忍耐を覚え、私たちのためにこの世に来てくださったお方の苦しみを覚える時です。肉体をとられた神の御子が私の罪のためにその体全部で苦しみを受けてくださったことを思い、このお方に心からの感謝と賛美を捧げましょう。

恐れるなと命じる主

2016-10-01
千代崎 備道
 
 あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。
 
(Ⅱ歴代誌二十章17節 口語訳)

「恐れるな」「恐れてはならない」。この言葉は聖書全体に何度も繰り返されています。神様が私たちに「恐れるな」と命じられるのは、私たちには恐れがあるからです。自分の力ではどうすることもできないとき、私たちは恐れます。最初は自分でできると思い、自信を持っていたのが、不測の事態が起こり、考えていた計画が崩れるとき、不安と恐れを感じます。人間が全知全能であって未来のことも確実に予測でき、何事にも対処できる力があるなら、恐れる必要はありません。しかし、人間は神ではない。ですから、誰でも恐れることがあり得るのです。これまでは大丈夫だったから、という空元気は、すぐに消え失せるのです。
この人間に対し、神様は「恐れるな」と語ります。恐れは自然に湧き上がる感情ですから、恐れるなと言われても、つい恐れが心の奥に湧き上がってきます。ですから、神様は恐れるなと言う不可能なことを命令しているのはなく、恐れを持ってしまったときに、共におられる神を認め、神はどんな困難でも、どれほど多くて強い敵がいても、神様ならば勝利することができる、私たちの救いの勇士だと信じて、恐れを乗り越える平安と信頼を持つようにと招いておられるのです。
第二歴代誌二十章では、ヨシャパテという信仰深い王様の時代に、近隣の国々が連合して攻めてきた。ヨシャパテ王が神に助けを祈った時、神様は「恐れるな」と語られただけでなく、神ご自身が戦うと約束されたのです。次の日、ヨシャパテと民は出陣し、神様を賛美して行進しました。すると彼らが戦う前に神様が敵軍に働きかけ、敵は分裂して同士討ちを始めたのでした。こうしてヨシャパテ王は神様による勝利を目撃し、その勝利に与らせていただいたのです。
恐れるな、と命じられる神様は、私たちと共におられるだけでなく、ご自身が困難と闘う決意を持っておられるのです。私たちが自分の力に頼るのではなく、神様の主権を認め、従うならば、恐れる必要は無いのです。神様は勝利の主であり、戦いに猛き勇士だからです。
心の中に恐れや不安がありますか? 困難な問題や敵がありますか? 「恐れるな」と言われる主を信じましょう。

将軍としての主

2016-09-01
千代崎 備道
 
 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
 
(ヨシュア記五章14節)
 
難攻不落なエリコの町をどのようにしたら攻略できるだろうかと思いあぐねつつ、遠くからエリコを眺めていたヨシュアは、ひとりの強そうな勇士に出会いました。この人は敵か、味方か。敵なら倒して脅威を無くさなければならない。味方ならば心強い。ところが、その人は言います。ヨシュアの損得のために来たのではなく、私が軍勢の将なのだ、と。ヨシュアは自分中心の計算で物事を考えていたことに気が付かされ、自分は神のしもべであることを思いだし、地にひれ伏して従いました。私たちも物事を自分の益か損か、自分中心に考えやすい者です。そうではなくて神が私たちの主であり、私たちが従うべき存在であることを忘れてはいけません。
集団で何かをするとき、例えば団体競技において、自分一人で戦っているかのように考え、他のメンバーは自分の思った通りに動くべきだと考える人もいます。他の人にとってはやりにくい仲間です。自分もチームの一員であり、自分の弱さが分かっていて、それを皆に補ってもらい、また自分も他の誰かの弱さを補うことが自然に出来る人は、一緒に働きやすい人です。そして、自分が中心では無く、その団体の中で中心となっている人や指導者の指示に従うならば、秩序をもって全員が力を発揮できます。
教会においては、キリストが私たちの「将」です。パウロは「教会のかしらはキリスト、教会はキリストのからだである」と何度も教えています。からだはかしらに従うものです。自分は主に繋がっている「肢体」(身体のパーツ)であり、出来ることと出来ないことがあり、からだ全体がキリストの御言葉に従って一致するときに、神様の働きに用いられるのです。
神のチームの一員として良い働きをする秘訣は、自分がしもべであり、自分だけでは不完全な存在であることを知っていることです。弱さを認めるからこそ、勇士であるお方に頼り、助けていただけます。しもべであることを知り、自分を中心としないことにより、主の言葉に従うことが出来ます。ヨシュアのように主の前にひれ伏し、主が告げてくださる御言葉に全面的に従い、そして救いの勇士である万軍の主の栄光を見せていただきましょう。
 
 

救いの勇士による教育

2016-08-01
千代崎 備道
 
     ほむべきかな。わが岩である主。
 
   主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。
(詩篇百四十四篇1節)
 
  旧約聖書の時代は戦争が度々ありました。特に詩篇を多く作ったダビデは、若い頃から戦いに明け暮れる
 
毎日でした。彼の書いた詩の中にも戦いに関係する用語が多く使われています。今の私たちにはピンと来な
 
い表現かも知れませんが、当時の人にとっては、その意味するところは良く分かったことでしょう。
 
  冒頭の御言葉は、神様が戦争のために詩人(ダビデ)を鍛えるということを述べています。口語訳聖書では
 
「主は、いくさすることをわが手に教え、戦うことをわが指に教えられます」と訳しています。戦争の仕方を教
 
えるなんて、とんでもないこと、と考えるかもしれませんが、実際に戦いのただ中で生きなければならない戦
 
士にとって、戦い方は、それを知らずには生き延びることも出来ない、必要不可欠なことなのです。救いの勇
 
士である主は、人間が何も出来ない絶体絶命の時に不思議な御業を行って救ってくださるときもあります。紅
 
海でエジプト軍を打ち破ったときがそうです。しかし、人間が自分の力で勝利を戦い取るように導かれることも
 
あり、その場合は弱い者に戦い方を教えてくださるのです。
 
  私たちにとっての戦いは、血肉(人間)に対するものではない、とパウロは語っています(エペソ六・12)。罪
 
の世との戦い、悪魔に対する戦いです。しかし、私たちは罪の誘惑に弱い存在です。ですから、神様は私た
 
ちにも信仰による「戦い方」を教えてくださり、また自分の力に余る敵には助けを与えてくださる勇士なのです。
 
  神様は、戦いのモチーフを使うなら「勇士」と言い表すことが出来ます。もし教育というイメージで表現する
 
なら、最高の教師です。救われる前から私たちを教え導き、救われた後も天国に至るまで日々教え訓練して
 
くださいます。「ゆりかごから墓場まで」ではなく、死の先に至るまで教育してくださるのです。人生の戦いや試
 
練のときに助けてくださる勇士であり、また戦いに備えて普段から訓練し、戦い方を教えてくださるのです。
 
  御言葉により信仰を訓練された人は、小さな勇士となって、弱い人や若い人を助けることができます。私たち
 
も主に倣うものとなり、信仰の勇士として成長していきましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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