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み言葉のいづみ

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御心と私の願い

2019-03-01
千代崎 備道
 
アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。

(マルコの福音書十四章36節) 
 
十字架の前夜、ゲツセマネの園でイエス様は祈られました。「この杯(十字架)を取りのけてください」。しかし「わたしの願うことではなく、あなた(父なる神様)のみこころのままを、なさってください」と。この祈りがなければ十字架は実現しませんでしたし、その意味も分かりません。イエス様は弟子たちにこの祈りを聞かせたのです。
父なる神と御子キリストとは、人間の愛を遥かに越えた愛で結ばれていて、十字架はその愛を引き裂く出来事です。「とりのけて」と願われたことは、決してイヤになったとか恐れたという次元のことではなく、それがどれほどの大きな犠牲であったかを示しています。それでも主は「みこころのままに」と祈られたのです。
イエス様は父なる神様の御心をよくご存じでした。それは聖書(当時は旧約聖書)の読み方から分かります。パリサイ派の人々のように理屈をこねくり返すだけはない。サドカイ派のように自分に都合の良いことだけを抜き出すのでもない。書かれている言葉の背後にある、神様の本当の思いまでも汲み取って理解しておられました。だから、天地創造の記事から神様の人間に対する深い愛、ルツ記から犠牲を払ってでも救う愛、そしてイザヤ書から人間の罪を赦すために命を捨てる愛、聖書全体から父なる神の御心を知っておられました。でもイエス様の願いは、父なる神様と断絶したくない。その願いを父なる神様も、アブラハムのイサク奉献(創世記二十二章)で、愛するひとり子を犠牲とする父の姿を通して示しているのです。
自分の願いと神様の御心が違うことがあります。思い通りにならないことは多々あります。しかし、イエス様は神の御心こそが一番良い道であることを示されたのです。十字架を避けるなら、人間を罪から救うという神様の計画は成し遂げられず、世界の全てが無駄になります。でもイエス様が十字架につくことで、人間が罪から救われ、世界の全てが神の栄光を表すように変えられて行くことが出来るのです。私たちが聖書の御言葉を通して示される神様の御心のとおりにしていただくなら、神様が最善のことを私たちにもしてくださいます。「御言葉どおりにこの身になりますように。」

御言葉に導かれる旅

2019-02-01
千代崎 備道
 
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。

 (創世記十二章4節)
 
「わたしが示す地へ行きなさい」(十二章1節)との御言葉に従って始まったアブラハムの信仰の旅路は、「あなたの子孫はこの(星の)ようになる」(十五章5節)との約束を信じた時が一つのクライマックスだったとも言えます。何人かの子どもがいるのなら、何百年後には数百万になることも計算できたかもしれませんが、一人も子がいないときに神様の言葉を聞いて彼は語られた神様を理屈ではなく信仰によって信頼したのです。それが「信仰の父」と呼ばれる彼の原点であり、新約聖書でも何度も引用されているほど大切です。しかし、アブラハムの御言葉への絶対的な信頼と服従は、いつも同じだったとは言えません。
十数年後に神がアブラハムの前に現れて、九十歳になろうとしていた妻のサラから子どもが生まれると語られたとき、彼はその御言葉を信頼するよりも、理解出来ないこと、あり得ないこと、と思ってしまったのです。妻のサラも御言葉をあざ笑ったのです。それは神様に真っ向から背くような不信仰でした。でも神様は語られた御言葉に真実なお方であって、その約束を成就して、ご自身の真実であることを実証されたのです。
私たちの信仰はアブラハムに勝るとは思えません。御言葉に対して一度でも全幅の信頼をもって従ったかどうかには自信がありません。でも自分に信頼を置けなくても、神様は信じるに足るお方です。私たちの小さな信仰さえも受け止めてくださり、アブラハムに対してと同じように「義と認め」てくださるのです。そして、聖書の言葉が一つずつ、私の生涯にも、また教会にも実現していくことを何度も見せてくださり、私たちが御言葉を信じないものではなく、信じる者となることができるように導いてくださるのです。
今年の標語『みことばどおりこの身になりますように』とは、神様への信頼と服従によらなければできません。でも、その信仰は誰でも最初からあるのではなく、何度も失敗をしながら、学び、成長していく信仰です。自分の力では信じる自身が無くても、神様こそが信頼できるお方だと受け止められるようにと、私たちを導いてくださるのも神様の恵みです。
アブラハムは幾度も失敗をしましたが、やがて神様の言葉を信頼して、愛するひとり子のイサクを捧げるまでに成長し、そのアブラハムの信仰を神様は喜ばれ、全てのことを備えて祝福してくださったのです。私たちもこの信仰の冒険の旅に招かれています。

おことばどおりこの身になりますように

2019-01-01
千代崎 備道
 
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。   
 
(ルカの福音書一章38節)
 
神様の御言葉が実現して、素晴らしいことが起きるなら、誰もがそれを願います。でも、それが「この身に」起きてしまう。自分がどうなるか不安だ、と考えたら、マリヤのように神様に無条件降伏するのは恐くなります。今年の教会の標語となった御言葉は、祝福の約束と同時に、私たちに献身と信仰を求めています。しかし神様は、私たちが神様に白紙委任をして、神様の御言葉に従おうとしたときに、「待ってました」と言って私たちを扱(こ)き使ったり、酷い目に遭わせるようなお方では無いはず。神様に逆らっていた私たちを救うために、大切な御子を与えてくださるほどに私たちを愛してくださった神様ではありませんか。
でも、私たちの信仰が弱い時は、本当に信頼して大丈夫かという不安を感じることや、信頼はしているけれども先が見えないために恐れを感じるのが人間である、ということも神様はご存じです。ですから、その人の信仰に応じ、成長の段階に応じて、必要な助けを与えてくださいます。そして、その助けをいただいたことで、さらに信仰が強められることが神様の願いなのです。
マリヤは天使の御告げに対し、必死の覚悟で「おことばどおりにこの身になりますように」と告白しました。でも御使いが消えた後、彼女の中には様々な思いが生じたことでしょう。天使を見たことは本当だったのだろうか、という疑惑。これからどうしたらよいか、という心配。考えるほどに不安は増大します。マリヤは親戚のエリサベツの家に行きました。エリサベツを通して語られた言葉で、マリヤは自分の体に起こっていることが神の聖霊によることを確信し、年長者であるエリサベツからの具体的な知恵を受けて、出産への心構えも出来たでしょう。何より、エリサベツを通して神様が示してくださった御言葉、「主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は、何と幸いなことでしょう」(ルカ一45)が彼女の心に平安と喜びを与えたのです。
神様は私たちが「おことばどおりにしてください」と神様への信頼を決意するとき、必ず私たちを助け、励まし、知恵を与えてくださいます。安心して、神様の御言葉に従って、この年も祝福に与りましょう。

実を刈り取り、種を蒔こう

2018-12-01

千代崎 備道

 

あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。


(イザヤ書三十七章30節)

 

預言者イザヤの時代に、アッスリヤ帝国が攻めてきて、北王国は滅亡し、南王国も首都エルサレム以外は征服され、エルサレムも包囲されるという危機がありました。神様が奇蹟を起こしてくださり、アッスリヤは引き揚げましたが、後に残ったのは荒れ果てた国土で、食べるものも乏しくなってしまいました。しかし神様はイザヤを通してヒゼキヤ王に御言葉を告げました。また包囲されている最中ですが、必ず助かることと、その後の食料も神様が備えていてくださる、という預言です。それが成就したときに、人々が神様を信じるための「しるし」、すなわち証拠だと語られました。
毎年のように種蒔きをし、実を収穫していると、それが当たり前で、実ったのは自分の力だと錯覚します。しかし、自分ではどうしようもなくなったとき、神様がこれまで結実を与えてくださっていたことを教わり、自分の力が足らないときにも必要を満たしてくださるお方だと気が付くのです。
今年は「豊かな実を結ぶ信仰」との標語を掲げました。個人的にも実を結べた人は神様に感謝しましょう。教会も少しずつでも実が与えられたことを覚え、神様の御名を賛美します。しかし、実が無いように感じる時、もうひとたび、実りを与えるのは神様であることを思い出しましょう。何も出来なかったときさえ、忘れていた過去の落ち穂や、他の人が蒔いた種を、知らない間に育ててくださるのは神様です。これまでの収穫は全部が自分の功績ではなく、多くの人の労と、そして神様の恵みであることを忘れてはいけません。
今、私たちが出来ることは、また新しい種を蒔くことです。それが何時芽を出すか、実りをもたらすかは、人間には分かりません。でも、苦労や挫折があっても、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇百二十六篇5節)との約束の通り、収穫の主に祈りつつ、期待をするのです。また新しい年も、御言葉の種を心に蒔き、福音の種を周囲に蒔き続けてまいりましょう。
「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。

その時が来るまで

2018-11-01
千代崎 備道
 
もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。 
 
(ルカの福音書十三章9節)
 
三年間実が成らなかった無花果(いちじく)の木に怒って切り倒せと命じる所有者である主人に、「もう一年待ってください」ととりなす番人は、キリストの愛と忍耐を表していることを、いづみ二月号でも書かせていただきました。でも一年経ったらダメなのでしょうか。きっとイエス様は「もう一年」とかばってくださるはず、と思います。しかし毎年のように「自動更新」されるのではないことを、この聖句は告げています。
ではいつまで主は待ってくださるか。どれだけ忍耐を尽くして待ってくださっても、実を結ばない木はいつか切り倒されます。教会は救いの実を結ぶことを目指すのですが、なかなか実を結べない、何年経っても救われる人が起こされないとき、不安になります。自分自身も、誰かを教会に導いたり、自分の信仰が成長して「御霊の実」(ガラテヤ書五章22~23節)を結べないと、この御言葉がなんだか恐くなります。
「もう一年」の声が確実に無くなるのは、キリストが再臨されて最後の審判が行われる時です。それまでは「七度を七十倍」とおっしゃる主の忍耐におすがりします。でも再臨はいつなのか。再臨については短い誌面では書けないほど難しい問題がたくさんあります。何年何月何日に再臨があるといった間違った理解は異端やカルト宗教になってしまいます。明日にでも再臨があるのだからと今日の仕事を止めてしまうのは加熱しすぎた再臨信仰です。逆に「再臨なんか無い」と否定するのも間違いです。聖書は、それがいつであっても大丈夫なように、いつも心を整えるように教えます。同じように、自分の生涯もいつ終わりが来るかは分かりませんが、心を備えることと、主を信頼してお従いすることが大切です。
この9節は翻訳が難しい箇所で、ギリシャ語では「それでもし未来に実を結ぶか・・・、しかしもしダメならあなたが切り倒してください」と字足らずな表現ですので、各邦訳は上手に意訳しています。来年とは言わず、「明日」とも「来たるべき世」とも訳せる言葉が使われています。再臨により来たるべき世が始まるまで、キリストは私たちが実を結べるようにと助けてくださいます。それが明日になっても良いように、毎日、主を信頼して御言葉に従う生き方をするなら、実を結ばせてくださるのは私の力ではなく主ご自身です。今年もあと少し、最後まで主を信じて歩みましょう。
 
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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