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み言葉のいづみ

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夏の果物から収穫の秋へ

2018-08-01
千代崎 備道
 
 主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏の果物です」と言うと、主は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。」
 
(アモス書八章2節)
 
暑い夏に水分と糖分を与えてくれる果物は良いイメージを感じさせます。ところが神様は、北王国イスラエルの滅亡を預言者に告げるのです。旧約聖書には数多くの「だじゃれ」(正確には「語呂合わせ」)が使われています。ヘブル語では夏の果物は「カイツ」、終わりは「ケーツ」です。預言者が「カイツ」と言うと神様は「ケーツ」と告げたのです。近い時期に南ユダ王国に遣わされた預言者イザヤは、イスラエルの象徴であるぶどうの木を題材に、神様がぶどうの木を植えて甘いぶどうを期待したのに酸っぱいぶどうを結んだ民に、神様の裁きの言葉を伝えています。「主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血」(イザヤ五章7節)。ここにも「公正」(ヘブル語でミシュパト)と「流血」(ミスパハ)が似た発音で駄洒落となっています。
一所懸命に努力をしたら良い結果になるかと言うと、そうならないことがあります。何かが間違っていたためです。学生時代に「一夜漬け」の勉強をしたことがあるでしょうか。最近の研究では睡眠によって記憶が定着すると言われますが、徹夜で暗記したことが思い出せなかったり、寝不足で集中力を失って、良い結果に結びつかないこともあります。時間を掛けて書いたレポートが良くない評価を受けるかもしれません。学生だけでなく、仕事や人間関係でも、良い結実を期待したのに、悪い結果となってしまうことがあります。
イエス様は、ご自身をぶどうの木に譬え、私たちはその枝であって、「わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハネ一五章4節)と教えました。自己中心や不信仰のままでは、悪い実を実らせてしまうのが人間なのです。しかし、その罪から救ってくださるキリストと繋がって生きるとき、主が良い実を実らせてくださるのです。
預言者アモスは滅亡を語っただけではなく、神の審きによりイスラエルは精錬されて、再び豊かな収穫を実らせる救いの日をも預言しています(九章)。失敗や挫折さえも神様は用いて、私たちをきよめ、成長させ、何よりもキリストとさらに堅く結びつく者とされ、収穫の恵みへと進ませてくださるのです。
 

実が結ばれないときにも信じる

2018-07-01

千代崎 備道

 

 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。

 

(マルコの福音書十一章13節)

 

実の季節ではないのに、実が見つからないイチジクの木を呪って枯らしてしまうイエス様を不思議に思う方もいらっしゃるでしょう。イエス様が求めておられたのは「初なりのイチジク」だと言われます。実りの季節の前に、実のようなものが出来て、人々はそれを探し求めるそうです。「私の好きな初なりのいちじくの実」(ミカ七・1)との神様の言葉もあります。
「初なりの実」の派生語に、「初穂」や「初子」というヘブル語があります。畑の初穂はまず神様に捧げます。また羊や山羊の母親が産む最初の子供は神様のものとして捧げます。最初の小羊を捧げてしまって、もし次が生まれなかったら、と心配になります。しかし、たくさん生まれて最後に余ったものを捧げるのではなく、神様がさらに与えてくださると信頼して、一番最初に感謝を捧げる。それが初子や初物の献げ物です。神様が好まれるのは、珍しい初物ではなく、神様への信頼です。
イチジクとぶどうは、どちらもイスラエルを象徴します。十字架の直前に、イエス様はエルサレムの人々が信仰を持つことを期待しました。何も実がないなら、今後も実を結ばない木は切り倒されてしまいます。それは、数十年後にローマ軍によるエルサレム陥落で成就します。でもイエス様はエルサレムの滅亡を望んでおらず、将来の豊かな結実を証しする初なりの実を実らせて欲しかった。この出来事はイエス様のエルサレムに対する警告であり、戒めでした。
私たちは実を結ぶことが難しいときに、焦ったり、失望して自分を裁いてしまいがちです。イエス様は、この枯れたイチジクの木のようになるなと戒めてくださるだけなのではありません。忍耐して待ち続け、必要な肥料を与えてくださるお方です(ルカ一八・8、二月号参照)。でもその恵みに甘んじて、自ら実を結ぶことを願わなくなってはいけないとも語っておられるのです。種を蒔き、成長し、結実するには時間と忍耐も必要です。なかなか「初なり」が無いと失望しそうになります。でも芽が出て、葉が茂るなら、収穫は遠くはありません。ちゃんと「初なり」があることを見いだし、小さなことでも神様に感謝し、信頼しましょう。

雨が降り日が照る

2018-06-01
千代崎 備道
 
 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。
 
(ホセア書六章3節)
 
雨の季節には、洗濯物が乾かないから、足もとが濡れるから、と言って雨が降ると憂鬱になります。梅雨が終わって猛暑になると、熱い日差しを避けるようになり、駐車するときは日陰を好み、日焼けしないように対策をします。もう少し若かった頃は、海水浴に行って真っ黒になるのが夏の過ごし方だったのですが。
梅雨に降る雨も、真夏の日光も、どちらも作物のためには必要不可欠です。どちらかが欠けてしまえば不作となります。イスラエル地方では日差しが不足することはほとんどなく、雨が降るかが農業にも牧畜にも重要問題でしたから、雨が降ることを願う表現が多く使われています。(例外は箴言二十七・15に出てくる「雨漏り」の話と、そして大洪水をもたらす雨くらいでしょうか。)
雨が多すぎる、あるいは少なすぎる、と不平を言い、日光をありがたがったりするかと思えば、日差しを避けたりする。何と人間というのは身勝手なのでしょう。私たちは、自分の人生でも、少しでも思い通りにならないと、「なぜ、こんなことが自分に起こるのか」と嘆き怒ります。しかし、もし神様が私たちの人生を実り多いものにしようとお考えになるなら、必要な雨と日差しを、必要な時に、必要な量だけお与えになるでしょう。今は辛く苦しいと思う出来事さえ、神様の御手の内にあるなら、私たちの信仰を成長させ、御心に適った実を結ばせるために、無意味ではないのです。
旧約聖書に登場する人々は、それぞれが苦難の時を通ります。しかし聖書が告げているのは、その苦難こそが、その人が神様と出会い、普段では知り得なかった神の恵みを知る機会となることです。アブラハムとサラは跡継ぎがいない悩みの中で、またヨブは全財産と健康を失って苦しむ中で、神様の声を聞いたのです。冒頭のホセアの預言では、イスラエルの人々は神様に従わずに滅びに向かう中、神様の恵みを安易に求めるような稚拙な信仰でした。しかし彼らが国の滅亡を通して知ったのは、まことの神様に従うことだけが救いだという真理でした。彼らは確かに「主を知る」ようになるのです。ですから敗北も失敗も無駄にはならなかったのです。
雪も雨も太陽も喜ぶ子供のように、天の父なる神様を信頼して、どんな境遇でも豊かな実りとしてくださるお方に従いましょう。

豊かな実の収穫への期待

2018-05-01
千代崎 備道
 
 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。
(レビ記二十三章16節)
 
旧約聖書と新約聖書には、実に様々な結びつきがあります。イスラエルがエジプトから救い出された後に神様が定めた祭りについてレビ記などが記しています。救いを記念する過越の祭りから数えて五十日目、すなわち七週間後が、五旬節(七週の祭りとも言う)です。五十日目という意味のギリシャ語がペンテコステで、使徒の働きの第二章で聖霊が弟子たちに下られた日です。
レビ記では、五旬節は小麦の収穫祭の時期にあたり、それに先立つ大麦の収穫が始まるのが、ちょうど過越祭の頃です。過越から五旬節までの七週間は穀物の収穫期で、五旬節の説明の最後には貧しい者たちのために落ち穂を残しておくように命じられていることが、ルツ記の出来事の背景となっています。このルツ記は、後に五旬節の祭りの礼拝で朗読されるようになりました。そのような意味では、五旬節は結実の喜びに満ちた祭りです。
しかし、最初に神様がモーセに命じたときは、イスラエルの民はまだシナイ山のふもとにおり、収穫どころが草木も乏しい荒野の生活でした。その彼らに、五旬節を命じることで、将来の豊かな収穫の希望を与えたのです。
新約聖書の五旬節、すなわちペンテコステの出来事は、旧い契約での救いが過越祭から始まり、約束の地での収穫の喜びを約束する七週の祭りで救いが完成したように、過越祭のときにイエス様が十字架で救いの贖いを成就され、ペンテコステに聖霊が下ったことで救いの業が完成し、さらなる結実を約束しているのです。それは、農作物以上の恵みである、人の魂の救いという結実です。
イエス様が一粒の麦となって救いの種を蒔いてくださり、聖霊の雨が注がれて収穫への準備を神様がしてくださいました。後は神様が約束してくださった多くの実、すなわち多くの人の救いという収穫のために私たちは用いられるのです。これまでも池の上教会を通して多くの方々に御言葉の種、福音の種が手渡され、そこに聖霊が働いてくださるときに柔らかな土地の心となり、命の水が注がれ、ついに救いという実が結ばれ、さらにキリストに似る者となるための御霊の実(ガラテヤ書)が結ばれ続けていくのです。私たちはその収穫を主にささげる働き人となったのです。

実を結ぶ希望を持とう

2018-04-01
千代崎 備道
 
 患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。
(ローマ書五章3~5節抜粋)
 
有名な聖句ですが、ただ単に、「忍耐していれば良い事がある」とか、「苦労すれば人間が成長する」という道徳訓なのではなく、信仰による救いが前提であることは文脈から明らかです。繰り返されている「生み出す」という言葉が示しているように、信仰が実を結ぶためには産みの苦しみが伴います。しかし、その苦しみは失望ではなく、希望に繋がっている、とパウロは告げています。
私たちが救いの恵みをいただいたとき、それはゴールではなく、その救いから始まって実を結ぶに至ります。その実とは、第一に、周囲の人の救いです。「あなたもあなたの家族も救われます」(使徒一六章31節)との約束の御言葉を信じて祈り続けますが、家族や友人が救いに導かれるまでに長い年月が必要なことがあります。また教会が伝道をして救われる人が起こされるまでに、どれほど多くの祈りと犠牲があるかは、伝道活動に携わった人なら誰もが知っています。しかし、その苦労も、神様がいつか必ず結実させてくださると信じるとき、忍耐が生まれ、希望が生み出されていきます。
もう一つの実は、「御霊の実」とも呼ばれる、私たちの内側が変えられて、キリストに似た者とされていくことです。これも時間がかかるだけでなく、苦悩を伴います。いくら努力をしても、なお自分の内側に醜さや愚かさを見いだしたとき、絶望的に感じます。それでも導いてくださる主を信じ、祈りつつ、御言葉を読みつつ、日々前進していくとき、その自分の祈りと、また周囲の友の祈りが積み重ねられ、神のことばが心に働きかけ、品性が練られていくのです。
時には、伝道のために苦悩することが自分の信仰の成長という結実に至ったり、また自分の内側に結ばれた御霊の実を見て、家族が救いを求めるようになったりもします。この二種類の結実は別々ではなく、どちらも神様が結ばせてくださる実なのです。
このことを知っているとき、たとえ家族伝道がなかなか進まなかったり、信仰の成長の遅さに嫌気がさしても、神様が希望を与えてくださり、「この希望は失望には終わることはありません」。必ず結実に至るのです。季節は春から初夏に向かい、葉が生い茂り、花が咲き、その先には結実があると信じ、たとえ患難があっても、希望を抱いて働き続ける者こそ、結実の喜びを味わうのです。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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