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み言葉のいづみ

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主はここにおられる

2015-07-01
千代崎 備道

    たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
(詩篇百三十九篇8節)
 
   小学生の頃、始めて自分のラジオを持ちました。何かの付録だったか、鉱石ラジオのよう
なものだったか、忘れてしまいましたが、実際にラジオ放送の電波を受信したのを聞いたと
きの不思議な驚きは覚えています。テレビやラジオは家にあっても、子どもとしては自分の
ラジオという意味で、始めての体験でした。
   神様は全世界におられるお方で、神学用語では「遍在」と言います。でも空気のようにど
こにでもある、というだけですと「空気のような存在」になりかねません。それは特に私た
ちとの関係において、私がどこにいてもそこにおいでになるということです。詩篇の詩人は、天でも黄泉(死者の世界)でも、主はそこにおられる、と告白し、賛美しています。
   電波もどこにでもあるのでしょうが、それを受信して始めて、存在を実感できます。神様
がここにおられることを実感する体験が、神は生きておられるということを理屈として知っ
ているだけではなく、強く生き生きとした信仰へと私たちを導きます。そのような体験は人
生に一度だけということではなく、必要な時に何度でも神様は私たちに声をかけてください
ます。
   ヤコブは自分の罪が原因で挫折したときに神と始めて個人的な出会いをしましたが(創世
記二八章)、彼の頑固な自我が砕かれるためには、神と取っ組み合い(の祈り)をする必要
がありました(同三二章)。アブラハムの妻サライの女奴隷ハガルも、自分の高慢の罪の結
果、主人から逃亡している途中で神の使いに出会いましたが、また同じ罪により自分の息子
が主人の息子を敬うように育てなかったために追い出され、そこで再び神の声を聞きました
(同十六章、二一章)。私たちの人生にも、そのような経験が必要であり、あるいは何度も
必要なのではないでしょうか。
   神様との生きた出会いなんて、特別な人間だけが出来るのであって、自分には出来ない。
そう思うのは、まるで自分を神様から遠ざけ、地の果てや黄泉の底に逃げているかのようで
す。しかし、私たちがどこに行っても、逃げようとしても、どんな霊的状態でも、またハガ
ルのようなイスラエルの正当な歴史からは疎外されているような存在でも、神様は見ていて
くださり、声を掛けていてくださるのです。この生きておられる神様を知る経験を求めてみ
ませんか。

主が家を建ててくださる

2015-06-01
千代崎 備道

    主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
  主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
(詩篇百二十七篇1節)
 
  神様が家を建ててくださるとは、何と感謝なことでしょう。もちろん、人間の働きによって家は建築されます。
 
一晩寝ている間に、神様が家を建ててくださるということは、もちろん全地全能の神様なら不可能はありませ
 
んが、神様は人間の働きを無視なさるお方ではありません。むしろ人間の側が、自分の力に頼りすぎ、神様
 
の助けを忘れてしまうことのほうがありがちです。しかし、主が一緒に働いてくださって、建てる者を守ってくだ
 
さるなら、例え困難があっても、必ず乗り越えることが出来ると信頼し、嵐の時にも平安が与えられるのです。
 
  家屋の建設だけではありません。敵が攻撃してきたときに町(当時は町を囲む城壁の上に見張り台がありま
 
した)を神様が守っていてくださらなければ、人間の見張りがいても敵の攻撃を防ぎきることができません。敵
 
からの防衛だけではありません。私たちの人生の、生活の、あらゆることにおいて、神様が共にいて働いてく
 
ださらなければ、いつかは人間の力の限界がきて、行き詰まってしまいます。特に、人生の最後に訪れる死に
 
関しては、人間にはどうすることもできないのです。ですから、あらゆる道で主が共にいてくださることを、認め、信頼し、求めていくことが大切なのです。
 
  「主は生きておられる」ということを私たちが知るためには、普段から共におられる主に心を向けることが必要
 
です。そうでないと、神様が危機から守ってくださったときに気が付かず、自分の力で成し遂げたと錯覚してしま
 
います。また思わぬ嵐が襲ってくるとき、神様への信頼を忘れていると、平安が持てないだけでなく、神様への
 
不平さえ心に湧き上がってくるのです。小さなことでも、いつも主に祈り、助けを仰ぎつつ歩む人は、神様が生き
 
て働いておられることに敏感になり、どんな困難な状況でも、神様を信頼することが出来るのです。
 
  今年は会堂の補修工事の年です。人間の力だけで成し遂げようとするなら、心配や恐れが生じます。しかし、会堂工事の時こそ、神様が助けていてくださることを学ぶ最良の機会です。主が率先して家を建てていてくださ
 
ることを信頼し、私たちも主と共に歩んでいこうではありませんか。

私たちとともに働かれる主

2015-05-01
千代崎 備道

  そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
(マルコ十六章20節)
 
  ペンテコステ(五旬節)の日に、弟子たちの上に聖霊が降られたときから、弟子たちが
力を受けて世界中に福音を伝え始めたことは、『使徒の働き』の二章以降に記されていま
す。彼らが奇跡(しるし)も含め、力ある働きをしたのは、聖霊の働きであるとともに、聖霊を遣わしてくださった主イエス様の働きでもあるのです。
  今年の教会の標語は「主は生きておられる」で、それは、神様は聖書の書かれた時代だ
けでなく、今も生きて働いておられるお方だ、ということは何度もお話ししてまいりまし
た。この生きて働かれる主は、教会を通し、また一人一人のクリスチャンを通して、今も
変わることなく働いておられます。ですから、教会の働きを見ていると、確かに主は生き
ておられることを知ることができるのです。
  確かに今日では初代教会の時のように、いわゆる「奇跡」を通して、生きておられる主
を見せていただけるかと問われれば、奇跡的な出来事は無いわけではありませんが、それ
ほど顕著ではないかもしれません。でも、歩けない人が歩けるようになったり(使徒三章)、絶体絶命の危機から救われる(使徒十二章)と言った奇跡はめったにないかもしれません
が、人が救われること自体が奇跡ではないでしょうか。罪が分からなかった人が自分の罪
を示されて悔い改め、どうしても信じることが出来なかった人が主イエス様を救い主とし
て信じる。それこそが最大の奇跡です。教会の誕生したときに三千人が救われたように、今も教会を通して救われる人が起こされているのを見るとき、確かに主は今も生きて働い
ておられることを知るのです。洗礼式は教会の中で主が働いておられるしるしです。

  信じて救われるという、クリスチャン人生のスタートだけが奇跡ではありません。その人
が信仰から信仰に進み、キリストの姿へと成長していくことも、主の働きなしにはありえな
いことです。その人の人生が新しくされ、今も、新しくされ続け、一生涯、主の恵みを受け
て変えられ続ける。それが、主が共におられるしるし、聖霊が私たちの内に住んでいてくだ
さるしるしなのです。
  自分の力でクリスチャンらしくなろうとしても難しいでしょう。でも、私と共にいてくだ
さる主が私を導いてくださる。そのことを信頼するなら、私の中にも主は働いてくださるの
です。

「主は生きておられる」と告げよ

2015-04-01
千代崎 備道

ですから、急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の
中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなた
がたは、そこで、お会いできるということです。
(マタイの福音書二十八章7節)
 
  イエス様が復活されたという知らせは、天使によって女たちに伝えられました。彼女たち
は、主は生きておられることを他の弟子たちに伝えるように命じられました。その後、弟子
たちは直接、イエス様にお目にかかるのですから、伝えるように命じなくても良いようにも
思えるのですが、この命令は、さらにイエス様ご自身が、「あなたがたはこれらのこと(十
字架と復活による救い)の証人です」(ルカ二十四・48)とおっしゃり、キリストの証人と
して世界に出て行くように命じることにつながっていきます。クリスチャンはキリストの復
活の証人として、主は今も生きておられることを告げるように命じられているのです。
  復活のイエス様を生身の姿で目撃した最初の人々以外は、直接にキリストを見た人はほと
んどいないでしょう。しかし、彼らの証言を聞いた人たちは、その言葉に力があり、命があ
ることを感じ、復活の主を信じる者となりました。そして、その人々もやがて主は確かに生
きて働いておられることを知るようになったのです(マルコ十六・20)。こうして、復活の
主を告げ知らせる働きは世界中に広まっていったのです。

  私たちも、主は今も生きておられ、私たちと共に働いていてくださることを、自分が知ら
せていただくだけでなく、そのことを他の弟子たちにも告げ知らせる「証し人」となりまし
ょう。何人もの人が、「主は生きておられる」、「主は確かに生きて働いてくださった」と
証しするとき、私たちの信仰は「生き」「生き」としたものとなります。そして、そのよう
な教会に来た人たちも、ここには何かがあると感じ、やがてキリストを信じ、ついには主は
生きておられることを知るようにしていただけるのです。

  今年は、「主は生きておられる」ことを知らせていただく年であるだけでなく、その証し
が豊かにされ、その結果、池の上キリスト教会が主の復活の証人としての使命を果たす教会
となっていくことを願っています。いえ、イエス様ご自身が私たちとも共に働いて、「主は
生きておられる」との御言葉を確かにしてくださるのです。

十字架の主は生きておられる

2015-03-01
千代崎 備道

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
(第一コリント一章23~24節)
 
  旧約聖書での「主は生きておられる」は、新約時代に生きる私たちには「キリストは生きて
おられる」ということでもあります。しかし、キリストは生きておられる、という場合のキリ
ストは、十字架と復活のキリストです。
  私たちはどうしても、十字架以前のキリストの姿を心に描きます。それは愛と力に満ちたイエス様です。ところが、現実の自分の姿、自分の置かれている状況は、愛や力とはかけ離れています。すると、「主は生きておられるのに、何故」という疑問が生まれてきて、だから「主は生きておられない」、「私と共にはいてくださらない」という結論を出してしまうことがあります。
  しかし、聖書が伝えるキリストは十字架の主です。パウロがコリントの町で伝道したときも、十字架のキリストを伝えました。それは、栄光のメシアを待ち望むユダヤ人にはつまずきとなって信じがたかったでしょうし、神々が十字架刑を受けるなんていうことはギリシャ人には愚かに見えたでしょう。でもパウロは、十字架のキリストこそが救いの道であり、神の力、神の知恵だと信じたのです。
  私たちと共にいてくださり、今も生きておられる主イエス・キリストは、十字架の主です。復活後も手に釘の跡があり、黙示録に描かれる世の終わりの情景でも「屠られたと見える」、すなわち十字架の痕跡をとどめたお姿なのです(黙示録五・6)。十字架の傷を隠さないのです。ですから、私たちが悩み苦しみのときに近くにいてくださるお方なのです。私たちは人間関係に悩みます。イエス様も家族に誤解され、弟子たちに裏切られ、無い罪を着せられました。私たちは傷つき痛むことがあります。キリストも十字架の痛み、父なる神から見放される苦しみを経験されました。十字架の主を心に浮かべるとき、一番辛い時にこそ、一番近くにいてくださり、誰からも見放されたと感じるときも、主は決して見捨てずに、苦しみ私たちと付き合ってくださることを知るのです。そこに、深い慰めがあり、神の力と知恵とが備えられているのです。
  十字架の主は生きておられ、私と共にいてくださる。この恵みを覚えましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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