本文へ移動

み言葉のいづみ

RSS(別ウィンドウで開きます) 

御言葉に従えなかったとき

2019-10-01
千代崎 備道
 
そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。      
 

(申命記四章29~30節)

 

ある日、イエス様が譬え話を語りました。ある人が二人の息子に仕事を命じた。一人は「はい」と言ったが従わなかった。もう一人は「いやだ」と拒んだが、後で悔い改めて、父の言葉の通りにした。この譬えを語られた人々は、神に従うと言いながら、神から遣わされた方の言葉には従いませんでした。彼らが蔑んでいた罪人たちのほうが、悔い改めて主イエスに従ったのです(マタイ二十一章)。
私たちは、イエス様によって罪から救われたのですから、主イエス様の言葉に従うのは当然なのですが、従えないことが少なくありません。自分の願いや欲望を優先するからです。でも神様は聖書の言葉を通して、従えない者に語りかけて、従うように勧めるのです。
牧師は神に召され、神様の命令に従う決意し、一生を捧げた者です。私たちの教会が属している教団は任命制度を採っていますので、教団の任命を神からの任命として受け止めて従います。教派によっては招聘(しょうへい)制度を採用し、教会の招きに応じて転任をしますが、その招きを神からの任命として受け止める点では同じです。私は以前、任命による移動を提案されたのですが、受けることが出来ませんでした。それには理由があったのですが、神様に従えなかったことが後悔として心に残りました。数年後、再び移動の提案がなされたとき、行き先がどこであっても従わなければならないと思いました。それでも紆余曲折はありましたが、最後に神様が導いてくださった道に従ったとき、この教会に遣わされましたのが十一年前です。
誰でも御言葉に直ちには従えないことがあります。旧約聖書は神の民イスラエルがいかに不従順であったかを記しています。しかし、神様は歴史の最初から彼らが御声に逆らって滅亡の道を進むことを予告し、しかし、国が滅んで異国に連れて行かれた、そのところで悔い改めて主に立ち返るなら、正しい道に導いてくださると示しておられたのです(申命記四章)。私たちも従うことに失敗し、その結果、道に迷い、困難に陥っても、その場所で神様に立ち返るなら、神様は御言葉に従う者に変えてくださいます。ですから悩みの中で真剣に主に立ち返り、御言葉を求めましょう。
 

御言葉に召された人生

2019-09-01
千代崎 備道
 
「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」
 

(出エジプト記三章10節)

 

モーセがホレブの山で神様の声を聞き、イスラエルの指導者として召されたのは八十歳の時です。それまで四十年間、荒野で羊を飼っていた単調な生活は一変し、神様のご計画を実現する大きな働きに身を献げ、不思議な御業を目撃し、困難もありますが神が共にいてくださるとの約束(三12)を確かに体験する人生となりました。アブラハムが神様から「行け」(創世記十二1)と語られたのと同じ命令にモーセも従ったからです。
聖書に登場する偉大な人物は私たちとは違う人間なのでしょうか。神様から与えられる役割は一人一人違いますが、その人を召して用いてくださる神様は同じお方です。私たちも神様の御言葉を信じて従うなら、私の力ではなく神様の言葉が実現していくのです。そして信じて従う人の人生も、モーセやアブラハムのように変えられて行きます。毎日を無我夢中で生きていながら、何のために自分は生きているのか、どのように生きることが正しいのか、根本的な疑問への答えを知らないままに、周りの状況に流されながら生きて行くしかない。でも神様を信じたときから、神様がともにいてくださり、御言葉によって道を示され、不思議な御業に目が開かれ、そして自分の人生は確かに天国に繋がる永遠の命の生き方なのだと教えられていくのです。
神様の御言葉に従う人生には、失敗や挫折もあり、困難は必ずやってきます。モーセもアブラハムもパウロも、皆同じです。モーセは、イスラエルの民に何度も背かれ、自分も大きな失敗をしたために約束に地には入ることができなくなります。それでも神様が「ともにいる」と約束されたことは変わりませんでした。それこそが一番大切なことではないでしょうか。
私たちの教会でも、毎年、誰かが亡くなり、ご葬儀が行われます。一人一人の人生は違いますが、主イエス・キリストを信じて人生が変えられ、御言葉を信じて歩み、神様の約束が真実であり、天国にまで導いてくださって、永遠にともにいてくださる。そのことを亡くなられた方は証ししておられます。私たちも「行け」とのお言葉に導かれて、天国に向かう人生の旅路を、主と共に歩んでまいりましょう。
 

神の言葉こそが成就する

2019-08-01
千代崎 備道
 
こうして、エジプトの国に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのと彼らのと、どちらのことばが成就するかを知る。

(エレミヤ四十四章28節後半)

 

預言者エレミヤはイスラエルの南ユダ王国が滅亡するときに活躍しました。神様はイスラエルが罪を悔い改めなければ滅びると語られ、そのとおりに北イスラエル王国も南ユダ王国も滅亡します。南ユダ王国がバビロン帝国に攻撃されたとき、エジプトに助けを求めようとした親エジプト派の人々がいました。彼らは、エジプトに頼るなら救われると主張しますが、神様はエジプトに亡命した人々に警告しました。自分たちの罪を悔い改めるのではなく、政治的なやり方で解決しようとするなら、やがて彼らも倒れるときが来る、と。
今でも人間は、神様の言葉に従うのではなく、自分の考え、自分の言葉に頼ろうとします。しかし、一時的に自分の思い通りになったとしても、ついには神様の言葉が正しいことを知るようになるのです。
これは私自身のことでもあります。中学生の頃に牧師になるように神様に示され、将来は牧師になるつもりでした。しかし大学生になり、実際に献身することをためらうようになり、牧師ではなく高校教師の道を選びました。しかし、ついに神様が私の心に語り掛け、従わざるを得ないまでに導かれました。退職して東京聖書学院に入学したとき、やはり神様の計画が実現するのだと思いました。先日、ある牧師と話をしていたとき、彼も同じような経験をしたことを聞いて、御言葉の力を思わされました。
神様が心に語り掛けてくださっても、私たちはすぐには受け入れられず、「でも私はこう思う」と言って、自分のことばを押し通します。でも人間の計画は不完全です。思ってもいなかったことが起こって、計画が崩れ、自分の足らなさに気が付きます。そのとき、私たちが信頼することができるのは、ただ神様だけだと知らされるのです。そうなって初めて神様の言葉に従うことが最善であることに目が開かれるのです。
神様のお言葉を信頼しましょう。自分の理解では難しいと思っても、出来ないことは神様がちゃんと助けてくださる備えをしておられます。聖書の言葉を聞いて、それを信じ、それに従うなら、神様は喜んで導いてくださるお方です。もっと神様の言葉を聞いて、御言葉が実現する、最も祝福される人生としていただきましょう。
 

神様の方が先に

2019-07-01
千代崎 備道
 

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。

それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの

名によって父の求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。 

(ヨハネの福音書十五章16節)

 

「神様に祈るなら、何でも適えられ、与えられる」という約束を、自分の欲望を満たすために用いるのは祈りの間違った用い方ですが、神様がキリストのゆえに祈りを聞いてくださるということは素晴らしい恵みです。私たちが神様に「おことばどおり、この身になりますように」と言うときに、神様の方が「私があなたのために何でもしてあげよう」と言ってくださいます。しかも、私たちがこの神様を自分が従うべき主として選ぶ前に、キリストの方から私を選び、遣わし、託された働きを通して実を結ぶようにしてくださったのです。
誰でもクリスチャンになりたての頃は、まず病気や人間関係など、悩んでいた問題からの救いを願います。聖書を通して罪からの救いということが一番重要であることが分かるようになり、キリストの十字架の愛を理解し、このお方に従うことが良いことだと考えるようになります。そして、神様への信頼が成長し、主に従う生き方を選び、決断をする。この段階に至るまで、多くの場合は何年もかかるかもしれません。
ところが神様の方は、私たちの信仰が十分に成長し、キリストを主として従うようになってから救ってくださるのではありません。どれほど未熟な信仰でもあっても、神様への理解が不十分でも、「イエス様を信じます」と告白するだけで、私たちを救い、罪を赦して義と認め、神の子として永遠の命を与え、天国の保証をしてくださったのです。いえ、信仰の告白をするよりまえから、聖霊を私たちの心に遣わして、信じる助けを与えてくださり、時には洗礼を受けるより前であっても祈りを聞き届けてくださるのです。
神様の方から私たちに対して、ご自身が真実なお方であることを証しし、私たちを必ず救うことを約束し、その証拠として御子を救い主として遣わしてくださいました。それなのに、どうして私たちの方が神様を信頼して、神様の言葉に従うことを躊躇(ためら)うのでしょうか。従ったらどうなるかなどと心配するのではなく、神様の愛を信頼して、御言葉に従う者となろうではありませんか。
 

聖霊による信仰告白

2019-06-01
千代崎 備道
 

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

(使徒の働き一章8節)

 

聖霊が弟子たちの上に降られたときに教会が誕生し、宣教の働きが世界に向かってスタートしました。特に、教会の歴史の初期には聖霊が降ることで様々な不思議なことも起きて、弟子たちが聖霊の確かに降られたことを理解できるようにしてくださいました。他国の言葉や異言(天使の言葉との理解もある)を語ったことも、癒やしなどの奇蹟が起きたこともあります。
旧約聖書の時代にも、少し違いはありますが、神の霊が降った人々に不思議なことが起こったケースがあります。初代王サウルは神の霊を受けて、一種の恍惚状態になり、最後は気を失っています。もちろん、そうではなく、神からの力を受けた人たちもいます。このイメージがあるためか、聖霊が私たちの心を満たすと、何か自分が自分ではなくなてしまわないか、という心配をする人もいるかもしれません。また、聖霊が与える力だけを求める人も出てきます。
イエス様の弟子たちは、聖霊を受ける前から、大きな働きが始まる期待を持ち、イスラエル復興を予想し(使徒一6)、きっと自分たちがその働きの中核を担うと考えていたでしょう。だからイエス様は彼らに「待ちなさい」と命令し、彼らは聖霊を受けるまで祈り続けていました。それは、人間的な考えだけで進めるなら、必ず失敗に終わるからです。聖霊に満たされたとき、彼らの働きが用いられて、神様の願っておられる形で主の働きが始められ、進められていったのです。
聖霊に満たされるとは、自分の意識が無くなることではなく、自分中心の考え方、自分の思い通りにしたいという自己中心が造り変えられ、神様に従う考えになっていくことです。そのとき、間違ったやり方ではなく、また自分の分を越えたことをするのではなく、むしろ神様が与えてくださった賜物が一番良く発揮され、神様が中心となってくださって良い働きができ、主の栄光のために用いていただけるのです。
マリヤやルツの、「おことばどおり」という信仰も、弟子たちとは違う形ですが、そこに神の霊が働いて、導いていてくださったからこその告白です。私たちも聖霊の導きに従いましょう。

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
TOPへ戻る