本文へ移動

み言葉のいづみ

RSS(別ウィンドウで開きます) 

聖霊による信仰告白

2019-06-01
千代崎 備道
 

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

(使徒の働き一章8節)

 

聖霊が弟子たちの上に降られたときに教会が誕生し、宣教の働きが世界に向かってスタートしました。特に、教会の歴史の初期には聖霊が降ることで様々な不思議なことも起きて、弟子たちが聖霊の確かに降られたことを理解できるようにしてくださいました。他国の言葉や異言(天使の言葉との理解もある)を語ったことも、癒やしなどの奇蹟が起きたこともあります。
旧約聖書の時代にも、少し違いはありますが、神の霊が降った人々に不思議なことが起こったケースがあります。初代王サウルは神の霊を受けて、一種の恍惚状態になり、最後は気を失っています。もちろん、そうではなく、神からの力を受けた人たちもいます。このイメージがあるためか、聖霊が私たちの心を満たすと、何か自分が自分ではなくなてしまわないか、という心配をする人もいるかもしれません。また、聖霊が与える力だけを求める人も出てきます。
イエス様の弟子たちは、聖霊を受ける前から、大きな働きが始まる期待を持ち、イスラエル復興を予想し(使徒一6)、きっと自分たちがその働きの中核を担うと考えていたでしょう。だからイエス様は彼らに「待ちなさい」と命令し、彼らは聖霊を受けるまで祈り続けていました。それは、人間的な考えだけで進めるなら、必ず失敗に終わるからです。聖霊に満たされたとき、彼らの働きが用いられて、神様の願っておられる形で主の働きが始められ、進められていったのです。
聖霊に満たされるとは、自分の意識が無くなることではなく、自分中心の考え方、自分の思い通りにしたいという自己中心が造り変えられ、神様に従う考えになっていくことです。そのとき、間違ったやり方ではなく、また自分の分を越えたことをするのではなく、むしろ神様が与えてくださった賜物が一番良く発揮され、神様が中心となってくださって良い働きができ、主の栄光のために用いていただけるのです。
マリヤやルツの、「おことばどおり」という信仰も、弟子たちとは違う形ですが、そこに神の霊が働いて、導いていてくださったからこその告白です。私たちも聖霊の導きに従いましょう。

聖霊が示す御言葉どおりに

2019-05-01
千代崎 備道
 
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

(使徒の働き二章4節)
 
イエス・キリストが父なる神様の御心に従い、十字架につかれたとき、十字架による贖いが完成し、復活により救いが完成しました。そのイエス様が弟子たちに語られた通りに、キリストの昇天後に弟子たちは助け主である聖霊を待ち望んで祈り続け、五旬節の日に聖霊が弟子たちの上に下り、教会が誕生したのです。聖霊も御言葉に書かれている預言の通りに人々に下ったことをペテロの説教から知ることが出来ます。
最初の聖霊降臨の時に起きた不思議な現象は、弟子たちに聖霊の働きを明らかに理解させ、また人々に神の働きであることを証しする出来事となりました。その中でも弟子たちが外国語で語り出したことは、福音が全世界に広められることの予表でもあります。語った内容は神様の偉大な救いに関することでした。弟子たちは聖霊が語らせるままに語り、神様が伝えさせたいことを話したのです。
聖霊の働きは、その後、変化していく部分があります。聖霊の存在がもう明らかになってからは、外国語を語るという奇蹟は無くなっていきます。天使の言葉で語ることもありましたが、そのような外面的なことよりも、信じる者の心に聖霊が来て下さることのほうが大きな奇蹟であり、それは今も変わらず、人がキリストを信じるときから聖霊が働いて助けていてくださるのです。
私たちが聖霊に満たされるとき、何が起きるのでしょうか。それは福音を伝え、救いを証しするために必要な力が与えられ、自分では出来ない伝道が聖霊によってなされ、私たちはその働きに参加させていただくのです。でも聖霊に従うのではなく、自分の力で何でも出来ると考えるなら、聖霊の働きは控えめになります。それは伝道のような大きな働きに関してだけでなく、自分自身の信仰においても同じです。聖霊が私たちの心に語りかけてくださる御言葉に従っていくとき、私たちの救いも大きく前進し、信仰が成長するのです。
私たちは聖霊が(分かりにくい人には「神様が」といっても同じです)示してくださる通りに語り、行っているでしょうか。それとも自分の思いに従い、言葉や行いにおいて失敗をしていないでしょうか。まず御言葉を通して語りかけてくださる聖霊の導きに従ってまいりましょう。そのとき、聖霊が助けてくださいます。

聖書に書かれているとおりに

2019-04-01
千代崎 備道
 
「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」
 
(ルカの福音書二十四章46~48節)
 
復活されたイエス様が弟子たちに教えたのは、救い主に関することは全て旧約聖書に書かれている通りに成就するのであり(ルカ二十四章27節)、十字架も復活も預言されているということです。さらに十字架と復活の主が宣べ伝えられ、救いが世界に伝えられることも旧約聖書は告げています。聖書の言葉は今も実現しています。
旧約聖書の原語であるヘブル語では「言葉」を意味する「ダーバール」という言葉は、「出来事」と訳す場合もあります。神の言葉は語られてお終い、ではなく、御言葉は必ず実現し、出来事となるからです。ですから、聖書に書かれていることも事実となっていくのであり、今も御言葉は生きていて、出来事となって行きます。
イエス様が父なる神様の御心に従って十字架で死なれたとき、旧約の預言のとおりになったのであり、だからこそ復活も成就することを信じて、十字架の苦難を忍ばれました。そして、事実、キリストは三日目に復活されたのです。そして、今、罪の赦しの福音が世界中に広められているのであって、私たちもその御救いに与った証人なのです。それは単に十字架と復活を信じ、そのことを伝える、という証人であるだけでなく、神の御言葉が必ず成就することの証人でもあるのです。そして、聖書は、十字架の贖いによって罪赦された私たちは、キリストと共に死に、キリストと共に生きるのであり、復活の命、永遠の命が与えられていることを教えています。この御言葉も事実となるのです。
私たちは復活の証人です。それは、クリスチャンになったら、誰もが死んでから三日目に生き返るということではありません。でも、死んでしまったら消えて無くなるのでも滅んでしまうのでもない。「死」という眠りについて、やがて御国で目を覚ます時が来る。そのことを私たちは信じるのです。キリストと同じ栄光の体に変えられることを御言葉のとおりに信じるのです。私たちは死を恐れたり、忌み嫌うのではなく、死の先にある希望を信じて生きるのです。死だけではなく、どんな困難にも立ち向かうのです。ですから、私のうえにも「御言葉どおり、この身になりますように」と祈ります。
 

御心と私の願い

2019-03-01
千代崎 備道
 
アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。

(マルコの福音書十四章36節) 
 
十字架の前夜、ゲツセマネの園でイエス様は祈られました。「この杯(十字架)を取りのけてください」。しかし「わたしの願うことではなく、あなた(父なる神様)のみこころのままを、なさってください」と。この祈りがなければ十字架は実現しませんでしたし、その意味も分かりません。イエス様は弟子たちにこの祈りを聞かせたのです。
父なる神と御子キリストとは、人間の愛を遥かに越えた愛で結ばれていて、十字架はその愛を引き裂く出来事です。「とりのけて」と願われたことは、決してイヤになったとか恐れたという次元のことではなく、それがどれほどの大きな犠牲であったかを示しています。それでも主は「みこころのままに」と祈られたのです。
イエス様は父なる神様の御心をよくご存じでした。それは聖書(当時は旧約聖書)の読み方から分かります。パリサイ派の人々のように理屈をこねくり返すだけはない。サドカイ派のように自分に都合の良いことだけを抜き出すのでもない。書かれている言葉の背後にある、神様の本当の思いまでも汲み取って理解しておられました。だから、天地創造の記事から神様の人間に対する深い愛、ルツ記から犠牲を払ってでも救う愛、そしてイザヤ書から人間の罪を赦すために命を捨てる愛、聖書全体から父なる神の御心を知っておられました。でもイエス様の願いは、父なる神様と断絶したくない。その願いを父なる神様も、アブラハムのイサク奉献(創世記二十二章)で、愛するひとり子を犠牲とする父の姿を通して示しているのです。
自分の願いと神様の御心が違うことがあります。思い通りにならないことは多々あります。しかし、イエス様は神の御心こそが一番良い道であることを示されたのです。十字架を避けるなら、人間を罪から救うという神様の計画は成し遂げられず、世界の全てが無駄になります。でもイエス様が十字架につくことで、人間が罪から救われ、世界の全てが神の栄光を表すように変えられて行くことが出来るのです。私たちが聖書の御言葉を通して示される神様の御心のとおりにしていただくなら、神様が最善のことを私たちにもしてくださいます。「御言葉どおりにこの身になりますように。」

御言葉に導かれる旅

2019-02-01
千代崎 備道
 
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。

 (創世記十二章4節)
 
「わたしが示す地へ行きなさい」(十二章1節)との御言葉に従って始まったアブラハムの信仰の旅路は、「あなたの子孫はこの(星の)ようになる」(十五章5節)との約束を信じた時が一つのクライマックスだったとも言えます。何人かの子どもがいるのなら、何百年後には数百万になることも計算できたかもしれませんが、一人も子がいないときに神様の言葉を聞いて彼は語られた神様を理屈ではなく信仰によって信頼したのです。それが「信仰の父」と呼ばれる彼の原点であり、新約聖書でも何度も引用されているほど大切です。しかし、アブラハムの御言葉への絶対的な信頼と服従は、いつも同じだったとは言えません。
十数年後に神がアブラハムの前に現れて、九十歳になろうとしていた妻のサラから子どもが生まれると語られたとき、彼はその御言葉を信頼するよりも、理解出来ないこと、あり得ないこと、と思ってしまったのです。妻のサラも御言葉をあざ笑ったのです。それは神様に真っ向から背くような不信仰でした。でも神様は語られた御言葉に真実なお方であって、その約束を成就して、ご自身の真実であることを実証されたのです。
私たちの信仰はアブラハムに勝るとは思えません。御言葉に対して一度でも全幅の信頼をもって従ったかどうかには自信がありません。でも自分に信頼を置けなくても、神様は信じるに足るお方です。私たちの小さな信仰さえも受け止めてくださり、アブラハムに対してと同じように「義と認め」てくださるのです。そして、聖書の言葉が一つずつ、私の生涯にも、また教会にも実現していくことを何度も見せてくださり、私たちが御言葉を信じないものではなく、信じる者となることができるように導いてくださるのです。
今年の標語『みことばどおりこの身になりますように』とは、神様への信頼と服従によらなければできません。でも、その信仰は誰でも最初からあるのではなく、何度も失敗をしながら、学び、成長していく信仰です。自分の力では信じる自身が無くても、神様こそが信頼できるお方だと受け止められるようにと、私たちを導いてくださるのも神様の恵みです。
アブラハムは幾度も失敗をしましたが、やがて神様の言葉を信頼して、愛するひとり子のイサクを捧げるまでに成長し、そのアブラハムの信仰を神様は喜ばれ、全てのことを備えて祝福してくださったのです。私たちもこの信仰の冒険の旅に招かれています。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
TOPへ戻る