み言葉のいづみ
聖徒のための祈り
(ローマ人への手紙一章7節)
『ローマ人への手紙』を始め、使徒パウロの書いた手紙のほとんど、そして他の使徒の書いた手紙でも、書き出しの部分には挨拶の言葉として、教会の人々の上に神からの恵みと平安を祈る言葉が含まれています。それは当時の手紙の習慣でもありましたが、聖書は単なる習慣だから形だけ書いているのではなく、この言葉が真実な祈りだったことを教えています。
手紙が書かれた起源1世紀後半にもいくらかの迫害がありましたし、パウロ自分も何回か命を落としそうになったことを語っています。この手紙が各地の教会に回し読みされ、やがて新約聖書の一部分となっていった2世紀から3世紀にかけては、教会はまさに大迫害の中に置かれていました。彼らにとって、これらの手紙から学んだ、恵みと平安を祈る祈りは、真剣な、そして彼らの信仰を励ました祈りだったことでしょう。
今年の初めには考えてもみなかった事態が日々進んでいます。新型コロナウイルスの感染の広まっている中で、病気自体の大変さと共に、国全体が、また世界各地でも、人々の心は不安でいっぱいになっていることも、状況を混乱させています。不安を抱く要素はいくつもあるでしょうし、その不安をさらに煽り立てる報道や情報が行き交い、中には混乱に乗ずる悪意もあります。ですから落ち着いて行動することが大切です。その一つは、祈りによる生活です。
私たちが祈るのは、単に自分の願いを実現するための手段ではありません。時には思ってもいなかった結果になるとしても、神様に委ねて信頼するとき、神様から「人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安」(ピリピ四7、口語訳)が与えられる恵みがあるのです。祈りは聖徒と神様を結びつける祝福の手段です。
迫害下のクリスチャンたちは、無事を祈っても、それでも殉教することがあったでしょう。でも、処刑される時でも彼らの平安は失われなかった。その姿が信仰の証となり、さらに多くの人たちがキリストを信じるようになったのです。これが神様からの平安です。今の私たちにも必要な恵みではないでしょうか。
牧師たちの祈りは今も変わりありません。池の上教会に連なる全ての方々、主の聖徒たちの上に、恵みと平安がありますように。
聖徒は、みな、祈ります
しかし、あなたは私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
(詩篇六五篇3節)
詩篇は旧約時代の信仰者たちの祈りと賛美です。いろいろな時代に、様々な状況の中で、それでも神様に向かって祈った彼らの祈りは、いつの時代の信仰者にも励ましを与え、信仰を教えてきました。今年の教会のテーマは祈りです。詩篇から祈りについて学ぶことで私たちの信仰も成長します。(詩篇百五十篇を一度に学ぶのは大変ですから、何回かに分けて礼拝で学んでいく予定です。)
詩篇を詳しく調べると、「私」と「私たち」が登場します。前者は個人の祈り、後者は会衆(信仰者たちの群れ、現在の教会の起源)の祈りです。個人で祈るときは、人の評価など気にしません。心の中にある思いを隠さずに神に語り、気になっていることを全て祈り尽くして、神様から平安をいただいて心が落ち着くまで祈ることができます。礼拝での司会者や献金当番の方の祈りのように、会衆の中で祈るとき、みんなの代表として祈るのですから、個人的なことよりも多くの人が理解出来る内容の祈りとなります。祈りの最後に「アーメン」と言うのは、「その通りです」という意味ですから、何を祈っているか理解出来ないような祈りでは誰も「アーメン」と言えません。また礼拝などの集会ではプログラムが決まっているので、時間にも配慮して手短に祈ります。
しかし、個人的な祈りと教会での祈りが、かけ離れたものになるなら、人前では格好をつける祈りとなりがちですし、一人のときは自分勝手な祈りになってしまいます。先にあげた詩篇六五篇3節では「私」と「私たち」が混在します。一人で祈っているときも、主にある兄弟姉妹のことを思い起こし、みんなのためにも祈ります。「咎」と「そむき」はどちらも罪のひとつです。他者の間違いを責めるのではなく、自分も神様の前には罪人であることを覚えて、相手と自分のために神様に赦しを願うのが大切なとりなしの祈りです。そのような祈りを神様は喜んでくださり、必ず赦しへと導いてくださいます。
今年は「みな」で祈りましょう。一人で祈るときも、他の方々のことを思い出して祈る。また教会で一緒に祈り、お互いのために祈り合う。それが聖徒の交わりです。心をひとつにして祈るなら、神様は必ず聞いていてくださると聖書は約束しています。よく祈る教会、またクリスチャンとなりましょう。
祈りを大切にする聖徒
(詩篇三十二篇6節前半)
祈ることはクリスチャンにとって大切なことだ、ということは誰もが知っているでしょう。でも、それを実践しているかは、どうでしょうか。分かっていてもできない。忙しいから、苦手だから、など様々な理由もあります。そのような私たちの現実をご存じなので、神様は聖書の中で、「祈りなさい」と命じておられるのでしょう。
勉強でも仕事でも健康管理でも、私たちは大切だと理解はしていても、実際にそれを行うのは難しいものです。でも、それが切実に必要であるなら、困難でもそれをやりとげようとするのではないでしょうか。私たちは、祈りが必要なのでしょうか。現実には、祈らないでも物事は進んでいきます。祈る必要を感じないのです。でも、確かに勉強をしなくても試験を受けることはできます。簡単なテストなら授業を聞いているだけで大体は答えられます。しかし、難しい試験の場合は、そうも行きません。大丈夫と思っていたのに、思わぬ問題が出て、結果を見てから、「ああ、もっと勉強しておけば良かった」と思うのです。私たちの姿はどうでしょうか。大抵のことはどうにかなっています。自分の努力で乗り切ることができます。しかし、考えてもいなかったような事態に陥ったとき、初めて何かが足らなかったことに気がつくのです。
「聖徒」という言葉は「恵み」という意味が背景にあります。神様の恵みを受けて、その慈愛に応答する人が「聖徒」なのです。新共同訳聖書では「あなたの恵みに生きる人」と意訳していますが、とても味わい深いと思います。聖徒は神様の恵みによって救われたことを知っています。自分の力では自分を救うことはできないと痛感するほどに、罪に対して、苦難に対して、自分の弱さを実感したことがあります。だから、例え小さなことであっても、自分の力でできると思い上がるのでは無く、まず神様に祈り、神様の主権とご慈愛を確認してから、神様が与えてくださる力に応じ、また神様が備えてくださる助けを感謝しながら、託された働きに忠実に勤めるのです。
今年は、祈ることを大切にしてまいりましょう。それは、何をするにもどこにいても、神様がそこにおられることを認め、神様に従って正しい道を歩むことだからです。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」と箴言(三6)に教えられていることを実践するのが祈りです。祈りによって歩む一年としてまいりましょう。
神に従ったキリストによる救い
(ヘブル人への手紙十章7節)
子なる神が人間となってこの世に誕生されたクリスマスは、旧約聖書のあちこちに預言されています。ベツレヘムで生まれること、アブラハムの子孫であること、ダビデ王の子孫としての王であること、など、預言は多岐に亘っています。その中でも霊的な存在であるお方が人間の肉体となられること(専門用語では『受肉』)は、全能の神でなければ不可能な、最も不思議な「奇蹟」です。この受肉の預言を説明しているのが、ヘブル書十章5~7節で、詩篇四十篇からの引用です。イエス様が人間となられたのは、父なる神の御心を行うためであり、それが十字架です。
父なる神は人間を救うために、また子なる神であるイエス様は人間の罪を背負って十字架で死なれるため、受肉が行われた。それは神にとってどれほどの痛みであったでしょうか。イエス様が聖書に記された御言葉に従って地上に来られ、ゲツセマネの園で血の汗を流すほどの苦しみの祈りをなさり、十字架で最後まで贖いの救いを全うされたことが、どれほどの犠牲を伴う服従であったか、私たちにはその一端しか理解出来ないほどなのです。
「おことばどおりこの身になりますように」というマリヤの従順に倣う一年を過ごす内に、私たちの従順も献身も、マリヤにも届かないものでしかないと気が付かされます。もし私の信仰や従順によって神様が救ってくださるとするなら、救われるには何と不足だらけなことでしょう。聖餐式で読まれる式文の中に「何のいさお(功績)の無いままに神の子とし」と書いてあるとおり、救われたのは私の功績でもなければ、私の従順や信仰でも無いのです。ただ神様の憐れみと恵みによることを忘れてはならないのです。
神様の御言葉に対する私の従順は全くの不合格です。信じて従おうと思っても何度も失敗します。従おうと思う前に、自分の思い通りにしたいという自己中心が従順を覆い隠してしまいます。でも、イエス様の従順は完全です。パウロが「十字架の死にまでも従われました」(ピリピ二・8)と書いているとおりです。このイエス様の御言葉への従順、聖霊が書かれた聖書への真実さ、それが私たちを救うのです。従えなかった自分を認め、キリストの従順と真実にすがり、主の助けをいただきながら従う者にしていただきましょう。
御言葉は我が足のともしび
(詩篇百十九篇105節)
聖書の御言葉は道(私たちの人生)を導く光ですが、その導きは足下を照らす灯りのようです。真っ暗な夜道では提灯(ちょうちん)が照らせるのは足下をだけで、数メートル先は見えないかもしれません。それでも一歩ずつ歩くことが出来ます。そして光が導く道は神様の御心にかなった道です。
光が正しい道を示していても、私たちは道を間違えることがあります。自分の経験や知識に頼ったり、聖書の言葉を用いて導いてくださる聖霊の語りかけを受け止めようとせずに、自分の計画や願いを優先させてしまうからです。御言葉の光と、またそれによって照らされる自分自身の立ち位置や歩き方を注視して吟味しないで、光を見ずに歩いてしまうのです。そして失敗や脱線に陥り、ついには迷子になってしまいます。
イスラエルは神の御言葉に背いて歩んだため、滅びに向かっていました。神様は預言者たちを遣わして御言葉の光を照らし、何度も彼らに正しい道を伝えましたが、彼らは悪い道から離れず、歩き方も正しませんでした。その結果、国は滅びました。もし彼らが悔い改めて預言者の告げる御言葉に従っていたら、滅びを免れて、徐々に良い方向に向かって行き、祝福を味わったでしょう。しかし滅亡した後で彼らの一部の者は御言葉を大事にするように変わり、ついに捕囚から帰還して国を再建しました。でも、その再建も預言者たちが予告した通りでした。御言葉に従っても、従うことに失敗しても、神様の計画は必ず実現します。ただ従わなかった民は亡国を味わいましたが、信じた人々は神の真実と憐れみを知ったのです。
私たちが、「おことばどおりこの身になりますように」と神様の言葉に従う時、神様の御心は祝福や恵みとして実現するでしょう。たとえ失敗して従えなかった時も、神様は立ち返る道を備えておられ、その道に光を照らしてくださいます。従っていなかった罪を示されたなら、悔い改めて従う決意をする時、正しい道に導かれ、私たちは神様の憐れみを体験するのです。
今年の教会の標語は、実行するのは難しく感じられたかもしれません。従おうと決意をして失敗することもあったでしょう。でも、神様はそれでも御声をかけ続けて、私たちを導いておられるのです。何度でも神様の御言葉を信じ従ってみましょう。