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み言葉のいづみ

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恐れるなと命じる主

2016-10-01
千代崎 備道
 
 あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。
 
(Ⅱ歴代誌二十章17節 口語訳)

「恐れるな」「恐れてはならない」。この言葉は聖書全体に何度も繰り返されています。神様が私たちに「恐れるな」と命じられるのは、私たちには恐れがあるからです。自分の力ではどうすることもできないとき、私たちは恐れます。最初は自分でできると思い、自信を持っていたのが、不測の事態が起こり、考えていた計画が崩れるとき、不安と恐れを感じます。人間が全知全能であって未来のことも確実に予測でき、何事にも対処できる力があるなら、恐れる必要はありません。しかし、人間は神ではない。ですから、誰でも恐れることがあり得るのです。これまでは大丈夫だったから、という空元気は、すぐに消え失せるのです。
この人間に対し、神様は「恐れるな」と語ります。恐れは自然に湧き上がる感情ですから、恐れるなと言われても、つい恐れが心の奥に湧き上がってきます。ですから、神様は恐れるなと言う不可能なことを命令しているのはなく、恐れを持ってしまったときに、共におられる神を認め、神はどんな困難でも、どれほど多くて強い敵がいても、神様ならば勝利することができる、私たちの救いの勇士だと信じて、恐れを乗り越える平安と信頼を持つようにと招いておられるのです。
第二歴代誌二十章では、ヨシャパテという信仰深い王様の時代に、近隣の国々が連合して攻めてきた。ヨシャパテ王が神に助けを祈った時、神様は「恐れるな」と語られただけでなく、神ご自身が戦うと約束されたのです。次の日、ヨシャパテと民は出陣し、神様を賛美して行進しました。すると彼らが戦う前に神様が敵軍に働きかけ、敵は分裂して同士討ちを始めたのでした。こうしてヨシャパテ王は神様による勝利を目撃し、その勝利に与らせていただいたのです。
恐れるな、と命じられる神様は、私たちと共におられるだけでなく、ご自身が困難と闘う決意を持っておられるのです。私たちが自分の力に頼るのではなく、神様の主権を認め、従うならば、恐れる必要は無いのです。神様は勝利の主であり、戦いに猛き勇士だからです。
心の中に恐れや不安がありますか? 困難な問題や敵がありますか? 「恐れるな」と言われる主を信じましょう。

将軍としての主

2016-09-01
千代崎 備道
 
 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
 
(ヨシュア記五章14節)
 
難攻不落なエリコの町をどのようにしたら攻略できるだろうかと思いあぐねつつ、遠くからエリコを眺めていたヨシュアは、ひとりの強そうな勇士に出会いました。この人は敵か、味方か。敵なら倒して脅威を無くさなければならない。味方ならば心強い。ところが、その人は言います。ヨシュアの損得のために来たのではなく、私が軍勢の将なのだ、と。ヨシュアは自分中心の計算で物事を考えていたことに気が付かされ、自分は神のしもべであることを思いだし、地にひれ伏して従いました。私たちも物事を自分の益か損か、自分中心に考えやすい者です。そうではなくて神が私たちの主であり、私たちが従うべき存在であることを忘れてはいけません。
集団で何かをするとき、例えば団体競技において、自分一人で戦っているかのように考え、他のメンバーは自分の思った通りに動くべきだと考える人もいます。他の人にとってはやりにくい仲間です。自分もチームの一員であり、自分の弱さが分かっていて、それを皆に補ってもらい、また自分も他の誰かの弱さを補うことが自然に出来る人は、一緒に働きやすい人です。そして、自分が中心では無く、その団体の中で中心となっている人や指導者の指示に従うならば、秩序をもって全員が力を発揮できます。
教会においては、キリストが私たちの「将」です。パウロは「教会のかしらはキリスト、教会はキリストのからだである」と何度も教えています。からだはかしらに従うものです。自分は主に繋がっている「肢体」(身体のパーツ)であり、出来ることと出来ないことがあり、からだ全体がキリストの御言葉に従って一致するときに、神様の働きに用いられるのです。
神のチームの一員として良い働きをする秘訣は、自分がしもべであり、自分だけでは不完全な存在であることを知っていることです。弱さを認めるからこそ、勇士であるお方に頼り、助けていただけます。しもべであることを知り、自分を中心としないことにより、主の言葉に従うことが出来ます。ヨシュアのように主の前にひれ伏し、主が告げてくださる御言葉に全面的に従い、そして救いの勇士である万軍の主の栄光を見せていただきましょう。
 
 

救いの勇士による教育

2016-08-01
千代崎 備道
 
     ほむべきかな。わが岩である主。
 
   主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。
(詩篇百四十四篇1節)
 
  旧約聖書の時代は戦争が度々ありました。特に詩篇を多く作ったダビデは、若い頃から戦いに明け暮れる
 
毎日でした。彼の書いた詩の中にも戦いに関係する用語が多く使われています。今の私たちにはピンと来な
 
い表現かも知れませんが、当時の人にとっては、その意味するところは良く分かったことでしょう。
 
  冒頭の御言葉は、神様が戦争のために詩人(ダビデ)を鍛えるということを述べています。口語訳聖書では
 
「主は、いくさすることをわが手に教え、戦うことをわが指に教えられます」と訳しています。戦争の仕方を教
 
えるなんて、とんでもないこと、と考えるかもしれませんが、実際に戦いのただ中で生きなければならない戦
 
士にとって、戦い方は、それを知らずには生き延びることも出来ない、必要不可欠なことなのです。救いの勇
 
士である主は、人間が何も出来ない絶体絶命の時に不思議な御業を行って救ってくださるときもあります。紅
 
海でエジプト軍を打ち破ったときがそうです。しかし、人間が自分の力で勝利を戦い取るように導かれることも
 
あり、その場合は弱い者に戦い方を教えてくださるのです。
 
  私たちにとっての戦いは、血肉(人間)に対するものではない、とパウロは語っています(エペソ六・12)。罪
 
の世との戦い、悪魔に対する戦いです。しかし、私たちは罪の誘惑に弱い存在です。ですから、神様は私た
 
ちにも信仰による「戦い方」を教えてくださり、また自分の力に余る敵には助けを与えてくださる勇士なのです。
 
  神様は、戦いのモチーフを使うなら「勇士」と言い表すことが出来ます。もし教育というイメージで表現する
 
なら、最高の教師です。救われる前から私たちを教え導き、救われた後も天国に至るまで日々教え訓練して
 
くださいます。「ゆりかごから墓場まで」ではなく、死の先に至るまで教育してくださるのです。人生の戦いや試
 
練のときに助けてくださる勇士であり、また戦いに備えて普段から訓練し、戦い方を教えてくださるのです。
 
  御言葉により信仰を訓練された人は、小さな勇士となって、弱い人や若い人を助けることができます。私たち
 
も主に倣うものとなり、信仰の勇士として成長していきましょう。

いつ祈るのか?

2016-07-01
千代崎 備道
 

    主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
(イザヤ書五十五章6節)
 
  困った時の神頼み、と言いますが、問題がすっかりこじれてしまい、しかもいくつもの問題
が複雑に絡み合ってしまってからでは、解決までに時間も忍耐もさらに必要となることもあり
ます。そうなる前に神様に祈ることが必要なのではないでしょうか。
  旧約聖書のイスラエルは、国が誕生したときから、また王国になったときも、つねに問題を
抱えていました。ですから、いつでも神に立ち返って祈ることが必要でした。しかし、彼らは
頑固で、なかなか悔い改めようとせず、国はだんだんと傾いていきます。預言者イザヤが遣わ
されたのは、国の北半分が滅びてしまい、南も危機的な状況にあるときでした。それでも神様
は彼らを見捨てずに、預言者たちを通して語りかけたのです。「近くにおられるうちに、呼び
求めよ」とは、神様が遠くに行ってしまい、叫んでも聞こえない、ということではありません。
神様は遍在(全ての場所に存在できる)のお方であり、全知全能の神ですから、どんな遠くか
らでも祈りを聞くことがおできになります。ただ、人間のほうが、あまりに神様から離れてし
まうと、祈ることもままならなくなる場合があるのです。そうなる前に、今のうちに神に近づ
いて祈るように、イザヤは語ったのです。
  私たちは、これくらいのことは祈らないでも自分の力でできる、と考えがちです。しかし、思わぬ事が起こって「どうしようか」と困る前に、自分にはできると思う小さな事でも神様に
祈ることが大切です。私たちの身の回りには、家庭でも仕事でも、大小軽重様々なでき事があ
り、問題や課題があります。全力を尽くしてそれらに取り組むことは当然ですが、それととも
に真剣に神様に祈り、神様の近くにおらせていただける祝福があることを覚えましょう。
  私たちが祈る気持ちを持つときに、神様は豊かな恵みを注ごうと待っていてくださることを
知るのです。イザヤ書の最後の方に、こう書かれています。「彼らが呼ばないうちに、わたし
は答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(イザヤ六五24)。神様は手くすねを
引いて、私たちが祈ることを待っておられ、すぐにでもお応えになろうと計らっていてくださ
るお方です。困ってから、ではなく、いつでも祈りによって神様の側に近づきましょう。祈る
課題は、いつでも、いくらでもあるのですから。

救いの勇士の手は短くない

2016-06-01
千代崎 備道
 
見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがた
の咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてく
 
ださらないようにしたのだ。
 
(イザヤ書59章1~2節)
 
  今年の教会標語であり教会の御言葉である「主は我が救いの勇士」(ゼパニヤ書3章17節)
に、私が初めて出会ったのは、高校生の頃でした。夏のバイブル・キャンプで、寄せ書きに書
くためにカッコいい御言葉は無いかと探していて、見つけました。深い意味などは分かりませ
んでしたが、何となく「良い言葉だな」と感じたことが記憶に残っています。
  その頃は、毎年、夏のキャンプには大勢の若者が押しかけ、百人以上のキャンパーが救いの
恵みに与りました。聖会でも何十人もの人たちが恵みを求めて「恵みの座」に出て行き、きよ
めの恵みを受けました。そこには、神様の救いの御手が確かに働いていることを、未熟な私で
も感じるほどでした。
  しかし、最近はそうではないように見えます。何故だろうか、と自問します。参加する若者
が減った。聖会出席者も「ベテラン」の信徒の割合が増え、キャンプもクリスチャン・ホーム
の子供たちが多くて、既に救われて洗礼も受けている。ですから、いまさら救いを求めたり、きよめを求める人が少なくなったのだろうか。いいえ、聖書は、人間の罪が神と人との関係を
閉ざしている、と告げます。私たちの不信仰や不従順、恵みを求めない頑なさ、さまざまな原
因は、私たちの中にあります。
  でも、どれほど人間の罪が多くて、神様は御顔を背け、祈りを拒んでいる、と思っても、「救
いの勇者」であるお方は、それでも私たちを救い、きよめ、成長させ、さらに救いの働きを私
たちを用いて押し進めてくださる力をお持ちなのです。
  神様と私の間で障害となっているものが示されたなら、それを悔い改め、その失敗や弱ささ
えも用いて、私の心を取り扱ってくださるように祈るなら、神様は必ず御手を伸ばしてくださ
るのです。
  今年も、夏には様々な行事が予定されています。池の上教会の退修会とJKのキャンプ、教
区のキャンプ、教団では箱根聖会とユース・ジャム。出席者が神様の豊かな恵みを受け、特に
救われ、献身する若者が多く起こされるように、是非、お祈りください。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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