み言葉のいづみ
祈りの場所に進み行く
その場所で祈る
教会を立てあげる祈り
諦めずに祈り続ける
(ルカの福音書十八章1節)
イエス様の教えられた譬え話とは、悪い裁判官に訴え続けるやもめの話でした。最後は裁判官も根負けして彼女の願いを取り上げてくれるのですが、この酷い裁判官が何の得にもならない彼女のために良いことをしようと思うまでには、よっぽどの回数、彼女は訴え続けたのだと思います。そして、何度、裁判官から辛辣(しんらつ)な言葉で追い返されたか。酷いことを言われて、くじけそうにもなったでしょう。半分諦め、でもまた気を取り直して訴えに行く。「絶えず祈りなさい」とは、そういうことです。もちろん神様は悪い裁判官ではありませんので祈りを聞いてくださいますが、その結果が出るまでは神様のご計画とお考えがありますので、時間がかかることはあります。その間、祈り続け、諦めない。途中で何度もくじけそうになり、諦めたくなるほどに辛いときもある。でも失望しないで祈り続けるのです。
どうせ祈りに応えてくださるなら、早くしてくださったら楽なのに、と思うかもしれません。でも、もし私たちに祈ること自体が必要であり、祈りを通して学ぶことや成長することがあるなら、神様は私たちを祈り続けるように導かれるのです。
私の好きな聖歌五五六番(新聖歌では歌詞が変わってしまいました)「祈りすれど手答えなく」という歌があります。
いのりすれど手答え無く、求むれど得ずして、重き心抱き続け、苦しむは誰ぞや。汝が持てるものを主の手に、ことごとく捧げしや。条件すれど降伏せば、勝ちうべし勝利を。
古い言葉なので若い方には分かりづらいかもしれません。でも祈っても手答えが無い。重い心で苦しみながら祈ることは、誰でも経験することがあるでしょう。それでも祈り続けるとき、神様が示されるのは、祈りを妨げているものが、他でもない、私の心の中にある。それは自己中心な願いかもしれない。神様の御心よりも自分を優先したい思いかもしれない。それを条件をつけないで神様に委ねるとき、神様は最善のことをしてくださる。諦めずに祈り続ける中で、神様は私たちの心を造り変え、状況を整え、何よりも神様のなさることを信頼する信仰を強めてくださるのです。
最初の譬え話で、おどろくべきことに、やもめは裁判官が必ず訴えを取り上げて、その結果、自分を苦しめている相手から守ってくれる、と信じていたのです。私たちは神様をもっと信頼して、祈り続けましょう。
山を動かす祈り
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
(マルコの福音書十一章23~24節)
祈りについての教えの中で、最も力強い約束です。何でも、山を動かすほどのことでも、信じて祈るならそのとおりになるのです。もちろん、祈るたびに山が動くと社会が混乱しますから、何を願うかは大切です。また、欲望の赴くままに求めるなら、与えられた人は貪欲の罪により滅びに向かってしまいます。間違った求めは神様が愛をもって止めなさいます。何が神様の御心に適うかも問われます。コロナ禍により社会が混乱し、教会も苦しい状況に置かれています。私たちは今、何を祈り求めたら良いでしょうか。もちろん皆が守られるようにも祈りますが、では山を動かすほどの求めとはどんなことでしょうか。
多くの教会で密集して集まることができず、分散しての集会やインターネットの利用などの工夫をしていますが、親しい交わりが出来ずに寂しく感じる人も多いでしょう。以前の状態に戻ることを期待していますが、治療方法が確立していない今は、注意をしながら教会の働きをすすめなければなりません。多くの人に呼びかける伝道も困難です。もう教会は前進できないのでしょうか。
キリスト教の歴史を顧みるなら、1~3世紀の教会は、ユダヤ教から始まり異邦人世界に宣教が進む中で、どのように聖書の真理を伝えるか苦労しました。厳しい迫害と多くの異端に苦しめられる時代でしたが彼らは信じ続け、神学が発展してキリスト教の土台が確固たるものとなり、ヨーロッパ宣教が前進しました。中世には形骸化のためカトリック教会が行き詰まったときに宗教改革が始まり、信仰の刷新と世界宣教が進むようになりました。何時の時代も、キリスト教は行き詰まるたびに、活性化して、新しい働きが始まり、止まっていたのが前進するようになってきたのです。
今、私たちも行き詰まりがあるかもしれません。でも神様の御業は止まられることはありません。必ず新しい働きを始めてくださるのです。その働きのために祈りましょう。神様が祈りに答えて、大きな山を動かして、今までは伝道できなかった人にも救いが与えられるようになることを信じて、祈り求めようではありませんか。