本文へ移動

み言葉のいづみ

栄光の神に近づく

2014-07-01
千代崎 備道
 
   わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。
(レビ記十章3節)
 
   神は人間を「神のかたち」として造られた、と創世記1章27節は告げています。「神のかたち」の意味について
 
は諸説あり、一言では説明できませんが、ハッキリしていることは、私たちは神の栄光を現すべき、特別な存在
 
として造られた、ということです。しかし、その後の創世記3章で人間は罪を犯してしまいます。そして、パウロが
 
ローマ書三章23節で語っているように、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず」
 
という状態になってしまいました。しかし、「この恵み(救い)に信仰によって導き入れられ、そして神の栄光に与
 
る希望」(ローマ五・2、口語訳)が与えられ、「栄光から栄光へと」(第二コリント三・18)変えられて行くのです。
 
   でも、私たちは問います。自分のような者が神の栄光を現すことが出来るだろうか、と。答えは『人には出来
 
ない』です。「これはまさに、御霊なる主の働きによる」(第二コリント三・18)と書かれている通りです。神様だ
 
けが私たちを栄光の姿に変えることがお出来になるのです。だから、私たちは、まず神様に近づくことが必要
 
なのです。
 
   レビ記十章には、最初の大祭司となったアロンの二人の息子が間違った方法で神の前に出て行ったために、
 
神の審きを受けたことが記されています。それは単なる間違いではなく、神様の命令に真っ向から背く、反逆
 
の罪だったのです。神様は、ご自分に悪しき思いで近づく者を滅ぼすことで、神の聖さが汚されるないようにし、神の栄光を示されたのです。とても悲しい事件でしたし、私たちは誰でも罪ある存在ですから、この事件を考え
 
ると、神に近づくことを恐れてしまいます。しかし、イザヤは神の前に立たされましたが、滅ぼされはしませんで
 
した(イザヤ六章)。それは、彼らが自分の罪を自覚し、謙って神の前にひれ伏したからです。神は彼の罪を赦
 
し、聖め、神の栄光の働きに召してくださったのです。
 
   私たちは欠けだらけの存在です。神様の前に出ると、それを認めざるを得なくなります。でも、その罪を覆い
 
隠したり、逃げて遠ざかるのではなく、神様の前に自分の弱さを認め、自分には神様の助けが必要なのです、と言いつつ進み出るなら、そのような人を神様は喜んでくださり、栄光を示してくださるのです。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
TOPへ戻る